ちょっと名の知れた人を妄信するのは、ただのコピー人間。
弱い自分は他人から浴びせられた言葉を信じるしかなかった
僕は「自分とは」を知るために救いを求めるように一時期「スピリチュアル」にはまっていた。本はもちろんセッションを受けてみたりしていた。
そこでよく「あなたは本音を言えていない。」「今、言った言葉はウソだ。」「(なにも感じませんと言うと)まだ扉を閉ざしています。」「感情は心(肚)からでるものだ。」などという言葉をよく浴びさせられた。
確かにそうだなと思うこともあったが、それが全て当てはまるとも思えない。でも、当時の僕は救いを求めるような人間だったため、そう言われると信じずにはいられなかった。
他人の言葉で生きるのはコピー人間
僕に浴びさせられた言葉通りにしてしまうということは、それはその人のコピーになってしまうと思う。それは、その人から見た「自分」になっているので、それは本当の「自分」とは違うはずだ。その人がどんな経験をしていようが、どんなに名声を得ていようが関係ないはずだ。
隣にいる人や道行く人の気持ちだったり、考えていることがわかるはずがないのと同じで、所詮、僕らは「他人」のことなんて理解できない。逆を言えば「自分」のことは「自分」にしかわからない。
それなのに、人は他人と比べては、自分より「人気」「お金」「地位」「能力」があると思う人の言うことを鵜呑みにしてしまう傾向が強いと感じる。それは凄く危険なことだが、もしも、自分が大好きなことでやっているのではあればそれはそれでもいいかとも思ってしまう。結局のところは信じる者は救われるのかもしれない。
僕は感性がずれている
僕は特に人と笑ったり、泣いたりといった感性のポイントが人とずれていることに気づいてきた。
例えば、今のお笑い番組を見ても大しておもしろいとも感じない。お笑いを一生懸命にされている人には申し訳ないので名前は控えるが素直にそう思う。
また、YouTuberにはまる人の感覚もわからない。あれが何億回と再生される意味がわからない。このように、僕は今、世間的には「人気」があるとされていることに興味がもてなかったり、人とポイントがずれていることにしばしば気づかされる。
それは、僕だけの話ではないはずだ。それぞれに「おもしろい」「かわいい」「かっこいい」「こわい」といった感性のポイントがあるはずだ。
それなのに、「人気がある」「仲間はずれにされたくない」「嫌われたくない」という理由でみんなと一緒になろうとすることは「自分を無くす」ことに繋がる。それよりも、人と違っても堂々と自分の素直な気持ちを伝えるほうがいい。
弱い自分でも正直に伝えたい
今後、もし、「そこは違うだろう」と言われたら「なぜですか?」と聞いてみたい。「本音で言っていない。」と言われたら「本音です。」と答えたい。また、弱いところがあってもいいと思う。言いにくいところや言いたくない場合もあるはずだ。そんな時も素直にその思いを伝えていきたい。
ウソをつくことは自分を傷つけることになる。傷は回復までに時間がかかってしまう。だから、その時は怖くても勇気をもって正直な気持ちを伝えることは自分を大事にすることになる。僕は弱い自分でも、自分の気持ちを正直に伝えて生きたいと思う。
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