Connect Blog

宇宙 心 体 人 いろいろなものを[Connect]≒[つなげる]。

身体からのサインを受け取る

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身体が、脳が、停止している。

こんな時は、【なんとかしなきゃ】と

【脅迫感】がある。

 

【脅迫感】と言うと【やらされている】のような自分の意思とは無関係のイメージがある。実際に、そのような感情なら、身体の【サイン】に従うべきである。

 

でも、それを利用する場合もある。それは、例えば、僕は必ず1日一つはblogを綴ると決めた。継続させて、習慣化するためにその【脅迫感】を利用している。

 

つまりは、【目的】があって【達成】するためなら必要なものに変わる。

 

それは、まるで【ワクチン】のようだ。

 

今日はゆっくり休んで明日から再スタートします。

 

 

全てはベストなタイミングで現れる

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人生にはタイミングがある。

 

伸るか反るかみたいな感覚で

 

突然に試されるようなことが目の前に起きる。

 

その時に、【安全】を選ぶと一見すると【楽】に見えるが、実は流れに反してるから凄く【過酷】になっている。

 

その時に、【怖い】を選ぶと一見すると【過酷】に見えるが、実は流れに沿っているから【楽】になっていく。

 

その流れに乗るかどうかは、【自分 とコミニュケーション】が必要だ。

 

外から影響されずに、自分に正直な気持ちのまま行動したい。

 

なぜなら、全てはベストなタイミングで現れるから。

便利を求めると気持ちが「雑」になる。

田舎に住んで居ると「面倒なこと」が見られる。わかりやすくいうと近所付き合いだ。

朝早くから玄関を開けて「おい、今朝採れたキャベツ持ってきたぞ。食え。」なんてこともある。

それ以外も消防団に参加したりと小さなコミニュティに属すとういうことが求められることもある。それが、田舎に移住した人が煩わしく感じてしまうとこでもある。

でも、僕はそういう面倒な付き合いが好きで、大事にしていきたいと思う。

 

便利を求めると気持ちが「雑」になる。

 

現代は、SNSが主流となってコミニュケーションがデジタル化されている。日本や世界中の人と距離、時間を超えてコミニュケーションがとれることは便利である。

でも、その便利さが習慣化されてそれ自体が当たり前になり、今までの不便さがに懐かしさを覚えてしまうことがある。そして、便利さを追求することは行動や行為が「雑になっている」と感じてしまうことがある。

 

自分以外は理解できない

 

まず考えないといけないのが、「相手のことは理解できない」とういうことだ。ちょっと乱暴な意見かもしれないが、「相手のことがわかっている」と思うことは、「自分の経験による判断」だと思う。

はじめて会う人の趣味、趣向を完璧に当てられる人はいないはずだ。もし、そのときにいくつか当たったとしても、それは、人相や服装などを見て「経験に基づいた予測」から答えを導きだしていると思う。

結局は、「自分とういうフィルターを通して答えを述べている」ことになるから、それは「相手」の本当の気持ちを言ったことではないと思う。

 

煩わしさが「丁寧」になる

 

日常会話のなかでも、「経験に基づいた予測」でコミニュケーションをとっていることがある。

それに気づいたのは、「煩わしく感じさせるくらいに丁寧なコミニュケーションをとる人」との出会いによって気づいた。

その人は「僕はこういうふうに感じたけど、あなたはどう思いましたか。」のように、必ずといって、「相手の意識を確認する」ようなコミニュケーションをとっている。

最初は正直に言えば「面倒くさい」と思った。しかし、自分がしていたコミニュケーションを振り返ると「相手はこう思っているだろう。」潜在的に判断して会話していることに心当たりがあった。

それは、効率を求めるから、できるだけ「煩わしい」工程を省こうとしているからだ。

しかし、「相手のことは理解できない。」はずなのだから、その「煩わしい」ことを省くことは「相手のことを理解する」ことを諦めてしまっていることになる。だから、後で「あの時はこういったつもりだったのに。」などすれ違いが生じてしまうことが起きてしまう。

 

煩わしさは「感謝」を表す行為

 

「煩わしさ」とは「相手」のこと大切にしたいという思いなのかもしれない。

田舎では当たり前のように近所付き合いがあるのも、「わざわざ足を運ぶ」、「声をかけ合う」とういう行動がある。

もちろん、それ自体はなくても生きていくことは可能であるが、それをするとういうことは、自分以外のことに対して「感謝」の行動なのかもしれない。

なぜなら、「わざわざ」「かけ合う」とういう言葉は悪い意味でとらえてしまいそうだが、そうではない。その言葉のように「あえてする行為」は時間と手間が必要になるからこそ、自分の気持ちが相手に伝わると思う。言ってしまえば「あなたのために」になると思う。つまりは、言葉の意味をどうとらえるかが大事で「ありがとう」と思いながらおこなうと決して、押しつけだったり、嫌みがある行為ではなくなる。

 

そう、僕はこれからも必要な人のところに直接会ってコミニュケーションとっていきたいと思う。それが、僕が表現したい「感謝」になる。

 

最後まで読んで頂きありがとうございます。

70億人の奇跡

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地球の人口70億人。そのなかで、出会うことができる人は【奇跡】だと思います。

なぜなら、70億人にいるなかから、日にちや時間もズレたら一生会わない可能性だってあるわけです。

それでも、会うことができるのは、なにかしらの【タイミング】と【メッセージ】があると思ってます。

もちろん、全ての人がそう感じるかわかりませんし、一人でいることを選択している人もいます。それはそれで【意味】があるはずです。

だけども、行動しないとなにも変わらないので、もしも、迷う人がいたら勇気を持って踏み倒すことをお勧めします。

その踏み倒しも、行くに躊躇があるなら、声を出すと誰かが反応してくれます。僕ももちろん反応しますよ。

【もしも、伝えたいことがあるなら、声を出して欲しい。その言葉が世界を創造していく】

【今、言って大丈夫なのかな?】【僕なんかが喋ってもいいのかな。】と遠慮してしまうこともあると思います。

しかし、その遠慮が本当の自分と遠ざかるものだと思います。遠慮はいらないけど配慮は必然です。

まずは、自分の本当の気持ちを伝え合える世界にしていきたいと思いました。

 

【罪悪感】を捨てるために、【なにもしない】を選ぶ

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なにもしないことに【罪悪感】をもたない

役に立とうとする【罪悪感】を捨てる

その【罪悪感】がなくなるときに本当の自分に戻れる。

 

本当の自分は、【いるだけでいい】。

それがあったうえで、【やりたいこと】を提供していきたい。

 

【思考で考える】や【他人から盗む】ものではなく、【自分の中から湧き上がるもの】こそに本当の価値があると思う。

 

だから、【罪悪感】を捨てることを体感するために、一日中ゴロゴロしてました(笑)

溢れ出した気持ちをgiftしたい

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世界を信頼することが委ねることになる。世界を信じれるから待つことができる。

 

それとは反対に世界を信じれるないときは、【なにかしなきゃいけない】となってしまい、そこに本当の気持ちがなくなってしまう。

 

本当の気持ちとは、【溢れ出す】ことであってそれは、【したい】になる。

 

それは、どんなことでもいいはずだけども、思考で行動してしまうときは【見えるもの】を優先してしまう。

 

見えるものとは、お金や物品であることが多い。

しかし、世の中には目に見えないものが多い。空気、重力、電波、紫外線、電子などがそれにあたる。

空気がないと生きていけないように、実はこれこそが本当に大切なものであったりする。

そう、目に見えないものこそ意識をすることが大切だ。

 

【溢れ出す】ものはなんでもいいはずだ。それは人それぞれ得意なことがあってそれを提供できるときに、きっと感動が生まれると思う。

 

 

当たり前のことにこそ丁寧にしたい

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全ては意識次第。

 

例えば、wifiのように目に見えない電波を使ってコミニュケーションをするのは、当たり前になる。

 

例えば、テレパシーのように目に見えないものを使ってコミニュケーションをするとそれはできないとなる。

 

その違いはただそれが『ある』『ない』と前提問題だけ。

 

だから、

楽しいと思えば楽しくなる。

悲しいと思えば悲しくなる。

 

それは、当たり前のことだけども、当たり前だから意識を向けるのが難しい。

 

つまりは、日々の生活をどれだけ意識できるかが大切になる。

 

当たり前のことにこそ意識を向けて生きていきたい。