テクノロジーとの共存
wifi、ネットは目に見えないのに、それを使うと当たり前に意思疎通を図れると思い込んでいる。
それが、テレパシーになると、『怪しい』となってましう。
どちらも同じ『目に見えないもの』なのに、違いが生まれる。
それは、ただ個人の意識だけで違うと思う。その意識は日常でかえることができる。ただ、丁寧に過去や未来に意識を飛ばすことをせずに、今に意識を向けることができるかだけだ。
いわゆるテレポーテーションは、ありえないと思いこんでいる。その思い込みは無意識たから意識を飛ばすことができずに雑になってしまう。
日常の中でどれだけ、意識を向けることができるか。当たり前と思うことまでも、今後は当たり前のことも意識を向けることが大切になる。
不器用さこそが可愛いんだ
僕は不器用です
自分で言うのも変な話だが何度もここで書いてあるように、僕は真面目な人間だ。だから、なんでも器用にこなしてしまうイメージが勝手にできてしまっている。
はじめて会う人によく指摘されるのが、「えっ?ひょっとして不器用ですか?」と問われる。
子どもの頃から細かい作業をするのが苦手で、運動バカとして育ったから僕の土台は絵に描いたような「不器用」である。
「不器用」があっても、頼まれたことは「なんとかやってみたい。」と思う性分で一度はチャレンジしてみる。やはりというか「不器用」であるから「うまくできない」ことが多い。自分ではうまくできたと思っても、相手が望む状態とかけ離れていることもしばしある。断っておくが別に悪気があってそうしているのではなくただの「不器用」なだけである。
続きを読む本当の気持ちも言えない100人の仲間より本当の気持ちを言える1人の仲間といたい。
頭を使って喋ると相手に伝わらない
人に思いを伝えるときにどうしても「うまく」伝えようとするときがある。頭の中でシュミレーションして相手になるべくわかりやすく伝えようと一生懸命に思考を巡らせる。
そして、最初にでる言葉が「目的」ではなく「理論」から入ってしまう。
それを聞いている側は「それで、なにが言いたいの?」となってしまう。
つまりは、相手に「うまいこと」伝えようとすればするほど実は気持ちが入らずに伝わってしまうことが多い。
続きを読む大丈夫ではないから「大丈夫」と言ってしまう
本当に「大丈夫」なら「大丈夫」と言わない。本当は「大丈夫ではない人」が「勇気」をもつことは「助けて欲しい」と声をあげることだ。
大丈夫ではないから「大丈夫」と言ってしまう
「大丈夫」だったり、「このままでいい」とか言っちゃてる人は本当は「大丈夫ではない。」そう在りたいと願うから「大丈夫」とつぶやいてしまうと思う。つまりは、「今、私は大丈夫じゃない」と宣言しているようなもの。そうなら、「大丈夫ってなんですか?」と尋ねるほうがいい。
そして、早いとこそこに意識をむけるのではなく、美味しいものを食べたり、遊びに行ったり、友達にあったりすることがいい。
なぜなら、「本当に大丈夫な人」は「大丈夫」と言ったりせずに、「自分がしたい」ことをし続けているからである。
続きを読む自分のポンコツネタは、笑いと共感の種になる
電車を待っているときにおばちゃんたちの威勢のいい笑い声が聞こえてきた。その内容はたわいのない内容であって、「体が思うようにならなくなった。」とか「家庭の愚痴」などだ。そんな日常にありふれた会話になにげに「ふと思う」ことがあった。
自慢大会
年を取るとできないことが自慢になる。「足が思い通りにならでしょ。バスが待ってくれたらいいのにね。」「そうそう、わかる。」とか「膝が痛くなってきて」「私も」とか「腰が曲がって腰痛で動けなくてね」「みんなそうよね。」みたいに「できない」ことで話が盛り上がり何時間もしゃべっている風景をみたりする。体力的な衰えがあるから致し方ない部分もある。
そうやって、「できない」ことに逆らうことができなくなってはじめて「諦める」ことができるのではないかなと思った。
それが「自慢」になり、話のネタになり笑い話となる。そこで、気づくとこは「できない」ことは「笑い話」になるとういうことと「共感性」を生むとういうことだ。
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