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宇宙 心 体 人 いろいろなものを[Connect]≒[つなげる]。

夢なんかない!

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夢ってないのかもしれない。

ただ、やりたいことをやっている。

それが、夢なのかもしれない。

 

お好きに生きている人ほど夢がなく

やりたいことをただやっている。

 

それは、今にフォーカスしているからだ。

 

今がない人は、過去の失敗を引きずり、未来に思いを馳せる。

 

大事なのは今だ!

 

今を生きれずして過去も未来もない!

 

だから、今の一瞬をドラマチックに生きていきたい。

 

それだったら、たまに辛口のスパイスもあるからアクセントが生まれる。そう考えると転けても回り道になってもそれさえも笑えてくる。

 

自分の人生をどう脚本できるかは、今の瞬間をどれたけ大切に過ごせるかだ。

 

「レンタル」を辞める。「友達計画」をはじめます。

僕は対等でいたい。だから、「友達」とういう言葉であったり、付き合い方が好きだ。

 

「自分自身」を「レンタル」することに対する違和感

 

今、自分をレンタル商品として売り出すことが流行っているように思う。例えば「レンタルおっさん」を調べてもらえると一目瞭然でもの凄い人数のおっさんがレンタル商品として登録されている。

世の中にそんなにおっさんの需要がもしもあるならそれはちょっとおもしろい。でも、私は男性であるから、おっさんよりもちろん若い女性がイイ。(笑)

 

この「レンタル」とういう言葉のイメージとしてあるのが、安い値段で自分自身を商品として提供している感じがする。

実際の多くの方が「50円」で売り出している。多分、「50円」という表示は先に売り出した人がいてそれが「多くの人にレンタルされた」とういう結果があるから、「50円」とういう値段設定にしているのではないかと思ってしまう。

この「とりあえず付けたような値段」も違和感しかなく、ましてや自分自身が「50円」とういう価値しかないのかとういう疑問符がつく。

それに、誰もが根底に「お金に対する欲」があるはずだ。資本主義のうえに生きているから、それを「宣言」するのがカッコイイよくて、隠すことに違和感を感じる。だから、「本当に欲しい金額を堂々と宣言」するように価値を決めるべきだと思う。それが「今」の自分自身の「値段」になると思う。

 

根本は「レンタル」とういう言葉に違和感を感じるから、「レンタル」ではなく「僕はあなたのために無償で愛を提供します。」とういう表現が潔くてカッコイイ。

「とりあえず」や「自分の価値を安く見積もる」ことをするくらいならいっそう「無償」で自分を提供することがカッコよく思える。

それに、「レンタル」とういう言葉は借主と商品とういう立ち位置になる。そうするとどうしても、「同じ目線」に立つのが難しくなる。

商品を「レンタル」した借主が上の立場とも言えるし、商品があるから借主が存在できるとも言えるから「同じ目線」になりにくいと思う。その「どちらかが上で、どちらかが下」になるような立ち位置が嫌いだ。

 

恐れずに言うのなら100歳の人であろうと「ただ長く生きている」とういう事実があるだけで、「同じ人間」であることには変わらない。だから変に遜ったり、上を見上げるような目線で見る必要もないと思う。

ただ、「生きる」ことは大変なことでもあるから、そこまで「生きた」ことに対する尊敬が自然と出てくるだけである。

 

自分自身の「役割」を価値として提供する

 

「レンタル」の趣旨も広く万人受けするため「価値を限定しない」で「なんでも」とういうスタイルにして「売り出す」と「なんでもするの?」「嫌なことでもするの?」「できないことでも受けるの?」などの質問が寄せられる。

こちらにも人権があるから「できないことはできない。」「したくないことはしたくない。」と答えてしまう。

そうであるなら最初からそれを明記するべきであった。そうなると、「なんでも」では当然なくなってしまう。それに、誰もが「得意なこと」や「好きなこと」があるはずだ。それが自分の「役割」というものになると思う。

その自分自身の「役割」を自信を持って「価値」として提供していくべきだと思う。

 

最後まで読んで頂きありがとうございます。

フルトミタツヤの「役割」

僕が自分の役割についてヒントとなる言葉を様々な方から頂いたなかで象徴的だと思った3つの言葉がある。ここからは、僕の「役割」について考察するのでお時間がある方はお付き合いください。

 

iいきなりですが、僕の「役割」は「その場にいるだけでいい存在」かもしれないと気づいた。それをうまく発動させるためには「頑張らないこと」ことが僕の「役割」を引き出す鍵となることなのかもしれない。

 

今までの経験から、自分一人で「なんでもしなきゃいけない」と思い込んでいたり、ちょっと人気がある人や経済的に豊かな人を見ては羨んで、その人みたいになりたいと「真似」をして頑張ってみたりしていた。結果はもちろんうまくいくわけもない。

だけども、それでも「なにかしないといけない」とういう「義務感」に襲われて必死でもがくように頑張っていた。

朝3時からチラシを配ったり、人に嫌われないように、自分より相手を優先させたり、人から受けた厚意も「なにかお返ししないといけない」という「義務感」から背伸びをして、「お金」や「物品」でお返ししていた。

今ままでは「一人で頑張ってなんとかしないといけない」とういう「義務感」があったから、「頑張る」ことしかできなかった。

 

 

その「義務感」がある行為は、自分を「信じていない」ことになると思う。それは、自分は「なにかしないと価値がないのではないか」であり、相手に対しても「価値を提供してもらえたのだからなにかしないと悪いと思う」ことやこの世界そのものに対して「行為に対して行為でかえさないといけない」と思い込んでいることになる。

 

「場を調整してくれる人」

僕はいわゆる「気を使うタイプ」だ。それは周囲を見過ぎてしまうとよくないことに繋がる。周りのことばかり気にして肝心の自分がなくなる。もちろん「それが自分だ。」とういう生き方もある。

しかし、多くは周囲を気にして自分を見失う人が多いと思う。僕は、育った環境や理学療法士の経験から「人を観察する目」が自然と養われた。

それによって、人のことをよく観察するから「場の状況」を瞬時に感じとり円滑になるように調整することが「得意」である。

これは、「場を盛り上げる」とは違い、「裏方のような役割」でどちらかとういうと地味な印象だ。例えば、食事場面を想像して貰いたいのだが、「箸の進み具合を見て料理を出すタイミング」、「飲み物は足りていないから持ってくる」「要らない皿を片付ける」などをおこなって「場を円滑」に進めるのが得意だ。僕はその場に合わせるから場合によっては、ずっと裏方でも喜びを感じてしまう。

 

「どの場にいても違和感なく溶け込める邪魔にならない存在」

僕は特定の場所に留まらず各地を放浪している。それでいて、特定の人を追いかけまわすようなこともない。それは言ってしまえば「飽き性」とも言える。だけども、それが結果として「行動力」と「好奇心」を育ててくれた。

それでいて「人を観察する」ことを「得意」としているから表に立つようなタイプではないから、いい意味では「いるのかわからない」くらいに気配を消せてしまう。

だから、基本的に「人」「場所」は特定せずに馴染むことができてしまう。

 

「お宮さんのような人」

これは「感性で生きている」のような人から言われた言葉である。その人からは本来は「人の感謝を引き出すような人」と言われた。思いあたる節として、部活動や無二の親友と別れるときなどは、泣いていていた記憶がある。それは恐らく特別なことをして貰えたわけではなく、僕を一人の人間として認めてくれた存在だったからそれに対する「感謝」から感涙が生まれたのだと思う。

また、お宮、つまりは神社でよく聞く話が「神様の存在はわからなくても場の雰囲気が気持ちい」とういう意見を多く聞く。だけども、お宮はただそこに鎮座しているだけである。おそらくその場所全体で作りだす雰囲気であるが、そのシンボリックなものとして存在しているのが「お宮」だと思う。

そして、「神様」と「人」が交流する場所でもあるから、そういう意味では「繋ぐ」役割もあると思う。

 

「アナタラシサ」を見つけて欲しい

ある意味では都合良く解釈しているのかもしれない。だけどもこれは自分自身が体験して気づけたことだ。

僕がここで同じように「役割」について悩んでいる人にお伝えしたいのは、自分で思い込んでいる癖を見直すためには「客観性」が必要である。

だから、いろいろな人に「アドバイス」を貰って「実践」して欲しい。僕もたくさんの間違った行動をしたから、この気づきがあった。つまりは、やっぱり行動しないとわからないとういうことである。最初からうまくいこうとせずに長い目で全ての行動を楽しめると継続できる。

そして、いろいろな人に聞くことができる環境なら「あなたは一人ではない」。勇気をもって行動して「アナタラシサ」を見つけて欲しいと思う。

 

最後まで読んで頂きありがとうございます。

 

僕らはが、本当に欲しいのは「安心」なんだ。

僕はパートナーがいない。その欲求が強くある。このタイミングでパートナーがいるとういうことで「なに」を得られているかについて教えて貰ったことが凄く腑に落ちた。それは、社会的認知度をあげることでも、性的欲求を満たすことでも、暇を解消することでもない。ただ「安心」が欲しいのだ。

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孤独が「不安」を生む

 

僕は独立して起業する時に散々言われたのが「一人だからイイよね(好きなことができるとういう意味)」「家族がいたらできないからうらやましい」などを言われた。

もちろん賛同できるところもあるけれども、それ以上に「不安」と戦うことになった。

僕はパートナーがいないために、一人で戦う選択をしていた。もちろん最終決断するときは自己責任を存在すると思う。その過程だったり、その後でも「腹を割って話せる」パートナーがいることはどれだけ精神的に「安心」を得られるのかと思った。

そのパートナーの形態としては、やはり「損得勘定がない」ことが求められる。「人の縁も金次第」とういう言葉があるように「お金」とういうものが絡むとなにかと「欲」が生まれ関係性がこじれると思う。

そういった意味での理想のパートナーは、「彼氏」「彼女」(家族)とういうパートナーかもしくは唯一無二の心友であると思われる。

 

「安心」とはただ傍にいてくれるだけでイイ存在

 

「安心」とはいてくれるだけでイイ存在だ。「見返り」を求めることではなく、ただ傍に寄り添っている感覚があればいい。

「安心」を体感するわかりやすい物として「お金」もある。お金は実際にはこの世の中のどこにでも存在しているが、支出が増えたり、自分で稼いで得る収入が少なくなって、手元から減っていくと突然に無くなる感覚に襲われる。

「支払いができない」「いつまでにお金を用意しないといけない」「給料が少ないから節約しないと」こんなふうにお金が「ない」とういう思い込みから「恐怖」と戦うことになっている。

これを言うと「それは屁理屈だ」と怒られてしまいそうだが、財布を持っている人は財布を覗いて欲しい。絶対に1円、5円、10円はあるはずだ。

「そんなことをいってるんじゃない。俺は明日までに携帯代金を支払わないといけないんだよ!」と怒られてしまいそうですが、それも「嘘」の思い込みにすぎない。

隣の人や友達、家族の財布には必ず「お金」とういうものは存在している。ただ、「今」自分の手元に必要なお金が存在していないとういうだけのことである。

この瞬間に「ない」とういう思い込みが表面化してきて、それが「恐怖」とういう感情に変わる。

 

不安とは「損失感」から生まれる

 

僕らは「恐怖」が出てくると「不安」になる。「不安」になるから「安心」が欲しくなる。すごく当たり前のことだ。だから、「安心」があると「幸福」も同時に訪れのかもしれない。

そう考えるなら、まず得るべきことは「安心」である。

その「安心」は「不安」と向き合っていくと生まれる。なぜなら、「不安」がないと「安心」が生まれない。だから、「不安」を経験することはある意味必要なことかもしれない。

「不安」とは「損失感」から生まれると思う。

「独りぼっちになったらどうしょう。」「お金がなくなったらどうしょう。」「会社がなくなったらどうしょう。」などを思考したときに「不安」が生まれる。乱暴な表現かもしれないが、これを体感して向き合えた時にはじめて「安心」が得られる。

そして、その「不安」が大きいものになっていけばいくほど「安心」も大きくなる。一見すると「不安」が拡大するから恐ろしいイメージを持たれるかもしれないが、そうではなく「ちょっとのことでは不安にならなくなる。」とういうことが起きる。

例えば、1万円が無くなるのに不安を感じた人がそれを「大丈夫」と思えたら次は2万円、5万円、10万円、100万円と数字もあがっていく。そのぶん「安心」も大きくなるとういうわけだ。

 

人間は「欲」があるから、「不安」も消えないと思う。しかし、本来は「今」は十分に満たされている状態であることを認識できたときに「本当の安心」が体感できると思う。そう、「今」この瞬間に「不安」があるわけではなく、これから訪れると思った「未来」が「不安」をつくる。だからこそ、まだ起きていない「未来」よりも「今」を大切にしていきたいと思う。

 

最後まで読んで頂きありがとうございます。

ストレスこそ人生をおもしろくさせるエネルギーだ。

ストレスというとどうしても悪いイメージがついてしまう。特に対人関係においてはネガティブなイメージが強いことが容易に想像がつくと思う。

「嫌われたらどうしよう」「怒られないか心配だ」「間違ったら悪いことするな」など他人を意識し過ぎるあまりにそれを「ストレス」と感じて場合によっては「病気」になることがある。

だが、逆に「ノンストレス」が理想の状態かと問われると「そうでもない」ことに気づいた。

 

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日本の四季にも「ストレス」がある

 

日本の四季は本当にうまくできたシステムだと思う。

今の春から初夏に向かう季節は気候は最高の状態だと感じる。暑くもなく寒くなく、また日本独特のじめじめとした感覚もない。昼寝をするには最適な季節だ。それくらい快適だと「なにもしたくなくなる」感覚に襲われる。

もちろんある意味では幸せの境地なのかもしれない。しかし、夏の暑い日がくると暑さを避けるために日陰を作る。秋になれば冬に備える準備をする。冬は春が来るまでどうにかしてしのいで過ごす。

こういうように四季ごとに訪れる季節風、長雨、湿気、暑さ、寒さなどの「ストレス」があるからこそ「どうしたら快適にすごせるか」を考えることができたと思う。

もしも、今の時期のように気候が良すぎると「アイデア」が生まれにくいのではないかと思った。

 

ストレスは「安全地帯」をつくる

 

人も同じでなるべく危険から身を守ろうとする。それはもちろん自然の摂理からすると当たり前である。

しかし、ずっと同じ安全地帯にいることは「成長」を止めてしまう。

例えば、学生時代は運動部に所属していたが年齢とともに日頃から運動しなくなると体力の衰えが顕著に表れるのと一緒で、身体も「運動」という「ストレス」を与えることで筋力、持久力と言った能力が維持・向上できるわけである。

だから、対人関係の「ストレス」も適度にあるのが好ましいと思う。その「ストレス」は「経験」に変わり「状況に応じた対応能力」が養われる。つまりは、「ストレス」があるから自分の安全地帯を広げることにつながる。

「以前はこのことで怖がっていたのに今では全然平気になった。」このような経験がそれにあたる。

 

 

 

安全地帯にずっといることは「生きることを保証」されている状態だと思う。その状態はある意味では「悟り」に近い状態なのかもしれない。

しかし、「生きることを保証」されていることは「思考」を奪ってしまう。なぜなら、「生きられる保証」があるのだから、「なにもしなくても大丈夫」と一緒のことになる。なにもしなくてよいのだから「思考」もしなくてよい。

「思考」とは「どうしたら快適に過ごせするか」などのアイデアを生む時には必要になるものだと思う。その「思考」を必要とするためには、「不快なこと」≒「ストレス」が必要となる。

だから、もし「成長」を望むなら「ちょっと怖い」と思うくらいのことにチャレンジするべきだ。そのときに「アイデア」が生まれて自分の望む世界がその先に作られると思う。僕はこれからも「ストレス」を受け入れて成長していきたいと思う。

 

最後まで読んで頂きありがとうございます。

 

出会いにメッセージがある

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僕が今まで出会った人は、時間や場所が少しでも違ったら出会うことがなかった。それを考えると【奇跡】だと思う。

 

また、その人達は【メッセージ】をくれる。その【メッセージ】は【今】知りたいと思うことを伝えてくれたり、見せてくれる。

 

僕の悩みはずっと【自分の役割】についてだった。精神的に落ちたときは、【自分は意味のない人間】ってとこまでマジで考えたこともあった。

僕については、【でっかいテーマ】としてずーと存在してました。

 

今、出会う人は、【自己ブランディング】ができてたり、進行形であったり、そこをテーマにしている人に出会えた。うまくはまとめれないけど、【どうしたら人生を面白く生きれるか】を考えている。それは、【誰かにやらされるもの】ではなくて、【自分の興味のまま】やっている感じがした。つまりは、良く言われる【在り方】があっての、【やり方】で行動していた。

 

それを実践する行動力が素晴らしい。【まず、やる】という精神。それは、子どものように、【やりたいからやる】のようにも見えた。

 

自分に置き換えた場合、僕はずっと【内の欠乏感】があって、それを補うためにずっと【外から足す】ことばかりしていた。

だから、【本当の自分】を見失い、他人を見ては羨み、それになろうと必死に努力していた。その時は、表舞台で活躍している人が羨ましくて、その人の真似を必死にしていた。

【自分も表舞台で活躍したい】【人から注目されたい】とその思いで、自分を見ることなく、他人に言われるがままやっていた。

もちろん、そんなのはうまくいくはずもなく直ぐに【失敗】した。お金も、仕事も、肩書きもなくなって、ようやく【自分】を考え始めた。結局、【なにがしたいん。】ってやっと思えた。


直ぐに結果が出るわけもなくすごく苦しかった。

【なんで、俺ばかりしんどい思いしないといけんの】って何回も思うた。

それでも、なんとか踏ん張れたし今、幸せになってきたのは、【出会えた人】のおかげだと本気で思っている。出会う人は直接的にも、間接的にも【生き方】を教えてくれました。それがあるから僕は今があると確信している。

 

僕は、【内の欠乏感】から常に【なにかしないといけない】って、外に合わせるように【取り繕うように】行動してたと思う。

それは、自分の内から溢れでるものではないから、【本当の自分】とはズレてしまい苦しくなってしまっていた。

だから、僕は内から溢れでる思いを大切にしていきたいと思う。それが、自分を大切にすることだ。