Connect Blog

宇宙 心 体 人 いろいろなものを[Connect]≒[つなげる]。

僕らはが、本当に欲しいのは「安心」なんだ。

僕はパートナーがいない。その欲求が強くある。このタイミングでパートナーがいるとういうことで「なに」を得られているかについて教えて貰ったことが凄く腑に落ちた。それは、社会的認知度をあげることでも、性的欲求を満たすことでも、暇を解消することでもない。ただ「安心」が欲しいのだ。

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孤独が「不安」を生む

 

僕は独立して起業する時に散々言われたのが「一人だからイイよね(好きなことができるとういう意味)」「家族がいたらできないからうらやましい」などを言われた。

もちろん賛同できるところもあるけれども、それ以上に「不安」と戦うことになった。

僕はパートナーがいないために、一人で戦う選択をしていた。もちろん最終決断するときは自己責任を存在すると思う。その過程だったり、その後でも「腹を割って話せる」パートナーがいることはどれだけ精神的に「安心」を得られるのかと思った。

そのパートナーの形態としては、やはり「損得勘定がない」ことが求められる。「人の縁も金次第」とういう言葉があるように「お金」とういうものが絡むとなにかと「欲」が生まれ関係性がこじれると思う。

そういった意味での理想のパートナーは、「彼氏」「彼女」(家族)とういうパートナーかもしくは唯一無二の心友であると思われる。

 

「安心」とはただ傍にいてくれるだけでイイ存在

 

「安心」とはいてくれるだけでイイ存在だ。「見返り」を求めることではなく、ただ傍に寄り添っている感覚があればいい。

「安心」を体感するわかりやすい物として「お金」もある。お金は実際にはこの世の中のどこにでも存在しているが、支出が増えたり、自分で稼いで得る収入が少なくなって、手元から減っていくと突然に無くなる感覚に襲われる。

「支払いができない」「いつまでにお金を用意しないといけない」「給料が少ないから節約しないと」こんなふうにお金が「ない」とういう思い込みから「恐怖」と戦うことになっている。

これを言うと「それは屁理屈だ」と怒られてしまいそうだが、財布を持っている人は財布を覗いて欲しい。絶対に1円、5円、10円はあるはずだ。

「そんなことをいってるんじゃない。俺は明日までに携帯代金を支払わないといけないんだよ!」と怒られてしまいそうですが、それも「嘘」の思い込みにすぎない。

隣の人や友達、家族の財布には必ず「お金」とういうものは存在している。ただ、「今」自分の手元に必要なお金が存在していないとういうだけのことである。

この瞬間に「ない」とういう思い込みが表面化してきて、それが「恐怖」とういう感情に変わる。

 

不安とは「損失感」から生まれる

 

僕らは「恐怖」が出てくると「不安」になる。「不安」になるから「安心」が欲しくなる。すごく当たり前のことだ。だから、「安心」があると「幸福」も同時に訪れのかもしれない。

そう考えるなら、まず得るべきことは「安心」である。

その「安心」は「不安」と向き合っていくと生まれる。なぜなら、「不安」がないと「安心」が生まれない。だから、「不安」を経験することはある意味必要なことかもしれない。

「不安」とは「損失感」から生まれると思う。

「独りぼっちになったらどうしょう。」「お金がなくなったらどうしょう。」「会社がなくなったらどうしょう。」などを思考したときに「不安」が生まれる。乱暴な表現かもしれないが、これを体感して向き合えた時にはじめて「安心」が得られる。

そして、その「不安」が大きいものになっていけばいくほど「安心」も大きくなる。一見すると「不安」が拡大するから恐ろしいイメージを持たれるかもしれないが、そうではなく「ちょっとのことでは不安にならなくなる。」とういうことが起きる。

例えば、1万円が無くなるのに不安を感じた人がそれを「大丈夫」と思えたら次は2万円、5万円、10万円、100万円と数字もあがっていく。そのぶん「安心」も大きくなるとういうわけだ。

 

人間は「欲」があるから、「不安」も消えないと思う。しかし、本来は「今」は十分に満たされている状態であることを認識できたときに「本当の安心」が体感できると思う。そう、「今」この瞬間に「不安」があるわけではなく、これから訪れると思った「未来」が「不安」をつくる。だからこそ、まだ起きていない「未来」よりも「今」を大切にしていきたいと思う。

 

最後まで読んで頂きありがとうございます。

ストレスこそ人生をおもしろくさせるエネルギーだ。

ストレスというとどうしても悪いイメージがついてしまう。特に対人関係においてはネガティブなイメージが強いことが容易に想像がつくと思う。

「嫌われたらどうしよう」「怒られないか心配だ」「間違ったら悪いことするな」など他人を意識し過ぎるあまりにそれを「ストレス」と感じて場合によっては「病気」になることがある。

だが、逆に「ノンストレス」が理想の状態かと問われると「そうでもない」ことに気づいた。

 

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日本の四季にも「ストレス」がある

 

日本の四季は本当にうまくできたシステムだと思う。

今の春から初夏に向かう季節は気候は最高の状態だと感じる。暑くもなく寒くなく、また日本独特のじめじめとした感覚もない。昼寝をするには最適な季節だ。それくらい快適だと「なにもしたくなくなる」感覚に襲われる。

もちろんある意味では幸せの境地なのかもしれない。しかし、夏の暑い日がくると暑さを避けるために日陰を作る。秋になれば冬に備える準備をする。冬は春が来るまでどうにかしてしのいで過ごす。

こういうように四季ごとに訪れる季節風、長雨、湿気、暑さ、寒さなどの「ストレス」があるからこそ「どうしたら快適にすごせるか」を考えることができたと思う。

もしも、今の時期のように気候が良すぎると「アイデア」が生まれにくいのではないかと思った。

 

ストレスは「安全地帯」をつくる

 

人も同じでなるべく危険から身を守ろうとする。それはもちろん自然の摂理からすると当たり前である。

しかし、ずっと同じ安全地帯にいることは「成長」を止めてしまう。

例えば、学生時代は運動部に所属していたが年齢とともに日頃から運動しなくなると体力の衰えが顕著に表れるのと一緒で、身体も「運動」という「ストレス」を与えることで筋力、持久力と言った能力が維持・向上できるわけである。

だから、対人関係の「ストレス」も適度にあるのが好ましいと思う。その「ストレス」は「経験」に変わり「状況に応じた対応能力」が養われる。つまりは、「ストレス」があるから自分の安全地帯を広げることにつながる。

「以前はこのことで怖がっていたのに今では全然平気になった。」このような経験がそれにあたる。

 

 

 

安全地帯にずっといることは「生きることを保証」されている状態だと思う。その状態はある意味では「悟り」に近い状態なのかもしれない。

しかし、「生きることを保証」されていることは「思考」を奪ってしまう。なぜなら、「生きられる保証」があるのだから、「なにもしなくても大丈夫」と一緒のことになる。なにもしなくてよいのだから「思考」もしなくてよい。

「思考」とは「どうしたら快適に過ごせするか」などのアイデアを生む時には必要になるものだと思う。その「思考」を必要とするためには、「不快なこと」≒「ストレス」が必要となる。

だから、もし「成長」を望むなら「ちょっと怖い」と思うくらいのことにチャレンジするべきだ。そのときに「アイデア」が生まれて自分の望む世界がその先に作られると思う。僕はこれからも「ストレス」を受け入れて成長していきたいと思う。

 

最後まで読んで頂きありがとうございます。

 

出会いにメッセージがある

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僕が今まで出会った人は、時間や場所が少しでも違ったら出会うことがなかった。それを考えると【奇跡】だと思う。

 

また、その人達は【メッセージ】をくれる。その【メッセージ】は【今】知りたいと思うことを伝えてくれたり、見せてくれる。

 

僕の悩みはずっと【自分の役割】についてだった。精神的に落ちたときは、【自分は意味のない人間】ってとこまでマジで考えたこともあった。

僕については、【でっかいテーマ】としてずーと存在してました。

 

今、出会う人は、【自己ブランディング】ができてたり、進行形であったり、そこをテーマにしている人に出会えた。うまくはまとめれないけど、【どうしたら人生を面白く生きれるか】を考えている。それは、【誰かにやらされるもの】ではなくて、【自分の興味のまま】やっている感じがした。つまりは、良く言われる【在り方】があっての、【やり方】で行動していた。

 

それを実践する行動力が素晴らしい。【まず、やる】という精神。それは、子どものように、【やりたいからやる】のようにも見えた。

 

自分に置き換えた場合、僕はずっと【内の欠乏感】があって、それを補うためにずっと【外から足す】ことばかりしていた。

だから、【本当の自分】を見失い、他人を見ては羨み、それになろうと必死に努力していた。その時は、表舞台で活躍している人が羨ましくて、その人の真似を必死にしていた。

【自分も表舞台で活躍したい】【人から注目されたい】とその思いで、自分を見ることなく、他人に言われるがままやっていた。

もちろん、そんなのはうまくいくはずもなく直ぐに【失敗】した。お金も、仕事も、肩書きもなくなって、ようやく【自分】を考え始めた。結局、【なにがしたいん。】ってやっと思えた。


直ぐに結果が出るわけもなくすごく苦しかった。

【なんで、俺ばかりしんどい思いしないといけんの】って何回も思うた。

それでも、なんとか踏ん張れたし今、幸せになってきたのは、【出会えた人】のおかげだと本気で思っている。出会う人は直接的にも、間接的にも【生き方】を教えてくれました。それがあるから僕は今があると確信している。

 

僕は、【内の欠乏感】から常に【なにかしないといけない】って、外に合わせるように【取り繕うように】行動してたと思う。

それは、自分の内から溢れでるものではないから、【本当の自分】とはズレてしまい苦しくなってしまっていた。

だから、僕は内から溢れでる思いを大切にしていきたいと思う。それが、自分を大切にすることだ。

身体からのサインを受け取る

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身体が、脳が、停止している。

こんな時は、【なんとかしなきゃ】と

【脅迫感】がある。

 

【脅迫感】と言うと【やらされている】のような自分の意思とは無関係のイメージがある。実際に、そのような感情なら、身体の【サイン】に従うべきである。

 

でも、それを利用する場合もある。それは、例えば、僕は必ず1日一つはblogを綴ると決めた。継続させて、習慣化するためにその【脅迫感】を利用している。

 

つまりは、【目的】があって【達成】するためなら必要なものに変わる。

 

それは、まるで【ワクチン】のようだ。

 

今日はゆっくり休んで明日から再スタートします。

 

 

全てはベストなタイミングで現れる

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人生にはタイミングがある。

 

伸るか反るかみたいな感覚で

 

突然に試されるようなことが目の前に起きる。

 

その時に、【安全】を選ぶと一見すると【楽】に見えるが、実は流れに反してるから凄く【過酷】になっている。

 

その時に、【怖い】を選ぶと一見すると【過酷】に見えるが、実は流れに沿っているから【楽】になっていく。

 

その流れに乗るかどうかは、【自分 とコミニュケーション】が必要だ。

 

外から影響されずに、自分に正直な気持ちのまま行動したい。

 

なぜなら、全てはベストなタイミングで現れるから。

便利を求めると気持ちが「雑」になる。

田舎に住んで居ると「面倒なこと」が見られる。わかりやすくいうと近所付き合いだ。

朝早くから玄関を開けて「おい、今朝採れたキャベツ持ってきたぞ。食え。」なんてこともある。

それ以外も消防団に参加したりと小さなコミニュティに属すとういうことが求められることもある。それが、田舎に移住した人が煩わしく感じてしまうとこでもある。

でも、僕はそういう面倒な付き合いが好きで、大事にしていきたいと思う。

 

便利を求めると気持ちが「雑」になる。

 

現代は、SNSが主流となってコミニュケーションがデジタル化されている。日本や世界中の人と距離、時間を超えてコミニュケーションがとれることは便利である。

でも、その便利さが習慣化されてそれ自体が当たり前になり、今までの不便さがに懐かしさを覚えてしまうことがある。そして、便利さを追求することは行動や行為が「雑になっている」と感じてしまうことがある。

 

自分以外は理解できない

 

まず考えないといけないのが、「相手のことは理解できない」とういうことだ。ちょっと乱暴な意見かもしれないが、「相手のことがわかっている」と思うことは、「自分の経験による判断」だと思う。

はじめて会う人の趣味、趣向を完璧に当てられる人はいないはずだ。もし、そのときにいくつか当たったとしても、それは、人相や服装などを見て「経験に基づいた予測」から答えを導きだしていると思う。

結局は、「自分とういうフィルターを通して答えを述べている」ことになるから、それは「相手」の本当の気持ちを言ったことではないと思う。

 

煩わしさが「丁寧」になる

 

日常会話のなかでも、「経験に基づいた予測」でコミニュケーションをとっていることがある。

それに気づいたのは、「煩わしく感じさせるくらいに丁寧なコミニュケーションをとる人」との出会いによって気づいた。

その人は「僕はこういうふうに感じたけど、あなたはどう思いましたか。」のように、必ずといって、「相手の意識を確認する」ようなコミニュケーションをとっている。

最初は正直に言えば「面倒くさい」と思った。しかし、自分がしていたコミニュケーションを振り返ると「相手はこう思っているだろう。」潜在的に判断して会話していることに心当たりがあった。

それは、効率を求めるから、できるだけ「煩わしい」工程を省こうとしているからだ。

しかし、「相手のことは理解できない。」はずなのだから、その「煩わしい」ことを省くことは「相手のことを理解する」ことを諦めてしまっていることになる。だから、後で「あの時はこういったつもりだったのに。」などすれ違いが生じてしまうことが起きてしまう。

 

煩わしさは「感謝」を表す行為

 

「煩わしさ」とは「相手」のこと大切にしたいという思いなのかもしれない。

田舎では当たり前のように近所付き合いがあるのも、「わざわざ足を運ぶ」、「声をかけ合う」とういう行動がある。

もちろん、それ自体はなくても生きていくことは可能であるが、それをするとういうことは、自分以外のことに対して「感謝」の行動なのかもしれない。

なぜなら、「わざわざ」「かけ合う」とういう言葉は悪い意味でとらえてしまいそうだが、そうではない。その言葉のように「あえてする行為」は時間と手間が必要になるからこそ、自分の気持ちが相手に伝わると思う。言ってしまえば「あなたのために」になると思う。つまりは、言葉の意味をどうとらえるかが大事で「ありがとう」と思いながらおこなうと決して、押しつけだったり、嫌みがある行為ではなくなる。

 

そう、僕はこれからも必要な人のところに直接会ってコミニュケーションとっていきたいと思う。それが、僕が表現したい「感謝」になる。

 

最後まで読んで頂きありがとうございます。

70億人の奇跡

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地球の人口70億人。そのなかで、出会うことができる人は【奇跡】だと思います。

なぜなら、70億人にいるなかから、日にちや時間もズレたら一生会わない可能性だってあるわけです。

それでも、会うことができるのは、なにかしらの【タイミング】と【メッセージ】があると思ってます。

もちろん、全ての人がそう感じるかわかりませんし、一人でいることを選択している人もいます。それはそれで【意味】があるはずです。

だけども、行動しないとなにも変わらないので、もしも、迷う人がいたら勇気を持って踏み倒すことをお勧めします。

その踏み倒しも、行くに躊躇があるなら、声を出すと誰かが反応してくれます。僕ももちろん反応しますよ。

【もしも、伝えたいことがあるなら、声を出して欲しい。その言葉が世界を創造していく】

【今、言って大丈夫なのかな?】【僕なんかが喋ってもいいのかな。】と遠慮してしまうこともあると思います。

しかし、その遠慮が本当の自分と遠ざかるものだと思います。遠慮はいらないけど配慮は必然です。

まずは、自分の本当の気持ちを伝え合える世界にしていきたいと思いました。