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「この人のためなら動ける。」となるときは幸せになれる。

今、「ブラック企業で働いていました。」とか「フリーランス」とういう言葉をよく目にする。どこか「どこにも所属していないことがかっこいい」みたいな風潮があるように見受けられる。それは本当に幸せなのだろうか。

 

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働くときは「なに」を選択基準にしているか。

 

ブラック企業を辞めた」と言う人の多くは、「給料が安かった。」「上司が自分の意見を聞いてくれなかった。」「残業が当たり前だった。」をよく聞く。それだけで本当に「ブラック企業」だろうか。もちろん当の本人には凄く辛いだろうし、辞めたとういう行動は一歩踏み出したとういうことでは素晴らしいと思う。

だけども、全て「企業」が悪いのだろうか。まず考えないといけないのは「選択」したのは「自分」であるとういうことである。

その選択基準を「なに」で選択したのだろうか。多くの方は「お金」「学んだことでできること」になっているケースが多いのではないか。ある意味では凄く自然なことだと思うがそれ自体は「提供」されたものにかしか過ぎないことを考えてなくてはならいと思う。

「お金」も「職場」も「環境」も「同僚」も全て「人」が関わっている。だから、まず「考えないといけないのは、どんな人と働きたいか」である。そこをしっかりイメージ化するべきである。ただ「楽しい」ではなく、どんな風に「楽しいのか」それ自体人によって違ってくる。だからこそ、自分が一緒に働きたいと思う人をイメージする必要がある。

これは「雇用」つまり「サラリーマン」だけではなく「起業」する人にも当てはまる。それが例え「伝統工芸」な職人でもきっと誰でもイイから使って欲しいとは思わないはずだ。「どんな人に使って欲しい」など「自分の商品」を届ける相手を思ってつくっていると思われる。

 

「この人のためなら動ける」とういう衝動で動くとき幸せになれる

 

辞める理由に、「残業」だったり「そのお金を支払われない」ことの理由がある。確かにそれ自体も「規約違反」があったり、仕事の分の対価を貰うのは当然の権利だ。

だけども、それも「この人のためなら動ける」とういうある意味、偽善といわれるような衝動にかられることがあった。

それは僕は現在「フリー素材」として活用してもらっている。そのなかで「田舎の村に本屋」をつくるから手伝って欲しいとういう依頼があった。店主とは約1年前に出会っているから全く知らないとういうわけではないし、もちろん「フリー素材」として活用してもらうから快く快諾した。

僕が活用されたのは3日間であった。開店前とういうこともありかなり追われていた。僕ができる作業自体は地味だったがひたすら同じこと繰り返すような「精神修行」の様子があった。そして作業時間も1日8時から深夜1時まで働くこともあった。確かに「体力」はきつかった。それでも、「心地よい疲れだった」。

それは友達だからとういうこともあるだろう。ただ考えて欲しい。当たり前だが決して遊びでやっていないことだ。店主は目に見えない、人には言い表すことができない「覚悟」を持ってやっているとういうことを。

そして、僕自身も「お金」を貰うことを前提にしておらず「貰えたらそれはありがたい。」くらいの気持ちでやっている。それでも、変な風に聞こえるかもしれないが僕は活用して貰えて幸せだった。それはきっと「店主」のためだったからだと思う。

 

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「誰か」のために行動したい

 

フリーランス」のように一見するとどこにも属していないようにみえるが、なにかしらの所得を得ている以上は「誰か」と関わっていることになる。だからこそ「選択」する基準を「誰と」にするべきだ。そして、僕らはその「誰か」と「同じ意識」を「共有」できたときに幸せを感じるのではないかと思う。だからこそ、例えそれは形ではどちらかが「雇い主」と「雇われる側」であったとしてもそれを超えた「フラットな関係」を築ける「誰か」のために「行動」できたら幸せだと思う。

 

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